最近私は、古文書の勉強を始めました。
晩酌しながら古文書を読む。
なぜ古文書解読の勉強を始めたかというと、先祖調査に必要になったからです。
このたび、先祖の地域に残されている江戸時代の古文書を見せていただけることになりました。なので、読めるようになる必要があるのです。
先祖を知ることで、家系のカルマを解消(浄化)することもできます。真の先祖供養を望む場合、まず先祖を知ることから。先祖調査はそういうスピリチュアルな面でも有用です。
別の言い方をすれば、DNAを癒すとも言えます。
私たちがDNAという形で受け継いでいるものの中に、エネルギーとして積み重なってしまったネガティブな要素を浄化していくのです。先祖の気持ち(エネルギー)に寄り添うことで。
高校時代、古典の授業≒睡眠時間だった私。
古文書解読は高校古典レベルのことは理解している前提から入るところがあります。寝ないで聞いておけばよかったと後悔しても後の祭。勉強はしておくものですね。
実は「古文書カメラ」というAIで古文書を解読してくれるアプリもあります。
こちらのアプリで読み取れば、結構な精度で古文書を解読してくれます。
しかしながら、古文書の決まり事や異体字や頻出定型文などを学んでおかないと、いくら文字を解読してくれたところで内容は理解できません。なので、結局自力学習は必要になってきます。
上の動画では、「この不動産の売買契約書は普通ではない」という判定がでてきます。「この文言が特殊である」と。「これは普通ではない」と気づくには、そもそも契約書のスタンダードな文章パターンを知っている必要があります。
古文書も、同じ。
「こういう内容の文章にはこういうパターンがありますよ」と頭に入っていれば、「ああ、この個所はこのことを言ってるんだろうな」という推測が容易になります。一文字一文字を完璧に読めなくても大方の意味をつかめるようになります。
例えば、書類を送付する文章。
お問い合わせ〇ただ〇ましたサービスに〇する資料を、お送〇します。
ご〇収のほどよろしくお〇い申し〇げます。
ご不〇点がございましたら、下〇担当までお〇い合わせください。
こちら、一言一句が完璧にはわかりません。しかし、何を伝えたいのかおおよそ推測できますよね。
古文書も同じで「普通この手の文章はこう書かれている」という法則を知っておくことが大切。
実は占いもそのためにあります。この世界は陰陽の法則でできているので、それを読み解けば人生のパターンを理解できるという寸法です。
そうはいっても、はじめは古文書を読める気が全くしなくて絶望しました。例えば、下の文章。
こちらは北海道立文書館の提供する実践力をつける古文書解読自習プログラムの初級レベルのテキスト。
どうですか。
絶望しませんか。
私はしました。「こんなの読めない」と。
しかし、コツコツ少しずつですが勉強してきて「ああ、これはこのことを言っているのかも」「これはあの定型文だな」などとわかるようになってきました。なので、上の文章も「これなら読めるかも」と思えるようになってきました。
うれしい進歩です。
小さくても積み重ねれば、力になる。
先ほども書きました通り、私は古文や漢文が好きだとはいいがたいほうです。私は地理や地学が大好きで(地球法則大好き笑)、国語はあまり……。今はこのようにブログを書いてはいますが、作文の成績もぱっとしませんでした。小論文なんて書いた日には赤ペンだらけで。
そもそも小説(文学)自体が苦手分野。
「ああーっ、もう、ネガティブ。暗い!ウジウジウダウダしてないでスッパリハッキリしてほしい。暗いの無理。陰キャは無理。こんな物語を読んでいたら人生は暗くなる、私はそんな人生は送りたくない。嫌だ!」
かように、純文学を読むとイラッときます。
アニメでもエヴァンゲリオンみたいな暗いのは苦手です。
私は明るい話が好き。
勇気や希望を与えてくれるハッピーな話に心から共感するし、感動します。
そういう光ある人生を望みます。
一方でアンナ・カレーニナとか太宰とか、暗すぎて発狂します。村上春樹もふにゃふにゃしすぎてて「何が言いたいのか論旨を三行でまとめて」と言いたくなります。しかし、三行でまとまるならそもそも小説になりません。それはさすがに無茶な注文です。
つまり、私は繊細な機微をなぞるような感性に劣る無骨者と言えましょう。私に文学の香りを楽しむ才覚はございません。シンプル脳筋。
したがって、古典のみならず現代文もつまらない教科でした。
「好きを大事にしよう」とか「好きじゃないことを無理にやらなくていい」とか、よく皆さんおっしゃいますね。しかし、私は今、苦手な古文書解読をやっています。そして、苦手なことなのにけっこう楽しいです。苦手なことだって積み重ねれば進歩しますから。
それに、苦手を克服したほうが自信がつくでしょう?
「やればできるではないか」と自分を頼もしく思えて、好きになれるでしょう?
私のような視野の狭い人間は好きなことばかりやっていると、狭い世界に閉じ込められてしまいます。苦手なことをやってこそ、世界が広がって開放感が味わえます。閉塞感にブレイクスルーを見出せます。
乗馬もそうです。
本来の私としては、乗馬は積極的に苦手です。苦手で下手です。でもやっています。
なぜ苦手なのかというと、私は体幹が決定的に弱いから。具体的にいうと、幼いころに尾てい骨を骨折しており現在も変な形でくっついてしまっています。ですから、バランスが取れずに体がすぐぐらつきます。ヨガのアーサナでもバランス系のポーズは壊滅的にできません。
馬の背に乗ると、ゆらゆらゆれます。常にバランスを取らねばなりません。
つまり、私の一番苦手とする動作。
加えて、O脚ぎみの私には使いにくい筋肉を使います。ふくらはぎで馬体に圧を加える動作なんて、本当に苦手。
自分には、乗馬とはたいへん向いていない行為であります。
なのにやる。
なのに、楽しい。
上達は遅いけれども、苦手だけれども、楽しいのです。
上手くいくから楽しいんじゃない。
上手くいかないことでも楽しい。
これができると、人生の楽しさは倍増します。
上手くいくことはすぐ飽きる。
上手くいくことは飽きるから続かない。
上手くいかないから努力してようやくできるようになる。努力した分やめるのがもったいなく感じて継続できる。
なぜ私がそう思うようになったか。
そのきっかけは水泳です。
私は小さなころスイミングスクールに通っていたのですが、背泳ぎとバタフライはすぐマスターしてできるようになりました。私は背筋お化けなので、多分そのあたりでこの2種目がすんなり泳げたのでしょう。
一方でクロールと平泳ぎは苦手。何度もテストに落ちて何度もやり直しました。
一生懸命頑張ってるつもりなのに上手く泳げなくて、何度も悔しい思いをしました。
時は経ち大人になってプールに行ったとき、つまり自分で好きに泳法を選んでいい場合何で泳ぐか。
クロールと平泳ぎです。
背泳ぎとバタフライは半分忘れています。笑
簡単にクリアしてしまったことは身につかない。
上手くいかなくて試行錯誤して身に付けたことはずっと使える。
これが私の実感です。
人見知りは当たり前 だからこそ楽しく克服♪
今の時代の流れとして、「人見知りしてると人生詰むレベルになっている」と以前の記事でもお伝えしました。
2020年代はコミュニケーション能力が大切。笑顔で人に愛を伝えられる人には素晴らしい時代です。外向的で社交的な人は開運し物事が上手く回ります。一方で人見知りして内向的でいると、流れをつかみにくくなります。
算命学で言うならば、火性の庶民台頭期が2027年からやってきます。これからは更に明るく楽しくコミュニケーションを活性化するのが重要だと言えますね!
私は人見知りしない人をリスペクトします。
具体的にいうと、初対面でも笑顔で相手に話しかけられる人は素敵な人だなと憧れます。私自身もそういう人間でありたいと思います。
なぜなら、「人見知りする」というのは人間として当然の現象だからです。
正常な発達をしている人ならば、人は自然と人見知りをするからです。
生まれたての乳児は人見知りをしません。なぜなら認知機能がそこまで発達していないから。下手をするとお母さんのお乳を自分の身体の一部とすら思っていたりします。だから平気でガリッとかみついたりします……。
しかし、そんな乳児も知覚が発達してくると「世の中にはどうやら自分と他人がいるらしい」という現実を認識できるようになります。しかもその他人という生き物は、自分の良く見知った安心できる存在とあまり親しんでいない知らない存在に分かれるらしい――そう細かく認識できるようになります。
そこで発動するのが人見知りです。
この段階にまでなると、お母さん(もしくは慣れ親しんだ相手)以外の人が抱っこすると「うわーん」と鳴き声を上げるようになります。
「誰これ、知らない、ママ、ママー」と母親を求めます。
要するに、人見知りとは幼児期における正しい発達を遂げた人間にはすべからく起こる現象です。
「自分は人見知りなので」というのは、「私は幼児段階で発達が止まっており、そこから社会性を獲得できず成長できていない人間であります」とカミングアウトしてしまっている状態とも言えます……。悲しいですね。
人見知りするのはあたりまえです。
乳幼児にとって正しいことです。
しかし、大人になった私たちはもう一段階成長できます。本来は人見知りであるのだけれども、勇気を出して笑顔で相手に話しかける社会性、コミュニケーション能力を磨くことができます。そうして愛あふれる人間関係を作っていくことができます。
人は皆、本来人見知りです。
そうやって発達してきました。
しかし、そこを克服して社会性を身に付けた人は初対面の人ともコミュニケーションをとる勇気を身に付けています。
私はそこが素晴らしいな、素敵だなと思うのです。
ですから、私は人見知りをしない人をリスペクトします。
人見知りをしない人は、大人としての社会性を発達させている人。自分を成長させられる人だからです。
つまり、「苦手を克服しているかっこいい人」と言えます。
苦手なことに取り組む、上達の遅いことをあきらめずコツコツ努力して積み重ねることによって粘り強い継続力も手に入るし「意外な得意分野」に気づくこともあります。苦手克服は自分自身の成長を実感できるありがたい機会であります。
「嫌なことから逃げない自分、乗り越えられる自分ってかっこいい」
こんな風に誇りに思えます。
自己肯定感が上がります。
なので、私は苦手な古文書の勉強をし、乗馬のレッスンを受けています。
ちょっと変わっているのかもしれません。
でも、すごく楽しいです。
高次の導きに従う訓練としての「苦手を克服」
実は、苦手なことを我慢して行う理由はもう一つあります。
これが一番大きな理由と言えるかもしれません。
それは
「高次の導きに従える忍耐力をつけるため」。
「えっ、高次の導きに従えばいつでも100%楽しくてワクワクでハッピーな毎日になるんでしょう? 高次の導きに従えば苦労や我慢なんてしなくていいのでしょう?」
こう思われたかもしれません。
しかし、個人的な体験からすると、スピリチュアルな流れがやってくるときに忍耐は必要だと感じます。
以下の体験談にもある通りです。
こちらの体験談をくださった方は、順調な道を歩んでいます。
人から羨まれるようなチャンスを手にし、新しい自分に出会おうとしています。
そんな時に何が起こるのか。
気分が落ち込むのです。
怖くて逃げだしたくなります。
ほら、聞きませんか。
「幸せが怖い」と。
例えば、周囲の人すべてが自分に親切にしてくれて優しくしてくれて思う通りに動いてくれて、一生楽しく生活できる資産が転がり込んできて、パートナーも優しくてコミュニケーション能力の高い(=一緒にいて楽しい)友達に恵まれて。
こんな状況になったら、どうですか。
私ならこう思います。
「怖い」
上手く行き過ぎる状態は、怖いです。
自分の想像を超える幸せがやってくると、受け止められなくて現実に圧倒されてしまいます。
「いやどうせ自分なんてダメだから。ほら上手くいかなかったでしょう。現実なんてそんなもの」と言っているほうが、実は楽。
魂の道を歩み使命を果たすための流れがやってくると、人生は驚くような展開を見せます。普通の人では実現できないようなことが簡単にするすると実現してしまって、本当に上手くいきます。普通に話したら信じてもらえないような奇跡が起こります。
その時、あなたはそんな状態を受け止められますか。
私は自分の経験上、それはすごく難しいことだと感じています。
上手くいっている状態を壊して精神的に安定したがる自分、波動を落として安心したがる自分が出てきます。変化を受け入れたくない、進化ではなく退化したい自分が出てくるのです。
こういったときに、情緒不安定になる自分を落ち着けて「大丈夫。大丈夫だから慣れるまで我慢してちょうだい。大丈夫だから。これで順調なのよ」となだめる(自分で自分の機嫌を取る)必要が出てきます。
ノーストレスで毎日好きなことをしてやりたいことだけをしていると、ここで自分で自分の機嫌を取れません。「うわ―どうせ自分はダメなんだ、自分にはそういうダメな状況がお似合いなんだ」とネガティブになって上手くいっている状況を壊したくなる自分に負けてしまいます。
だから、普段から苦手に取り組む。
違和感があっても、じっと忍耐しとどまる訓練。
そのために、古文書学習は役に立ってくれています。
正直、やっぱり、苦手です。苦笑
古文書、勉強してると眠くなります。良い睡眠導入剤。古典の授業はほぼ爆睡していた高校生の頃と全く変わっていない自分を実感します。
だんだん読めるようになる――成長することは純粋にうれしいです。けれども、根本的にはあまり得意ではありません。やはり私は、頭より体を動かすほうが楽しい。根が脳筋。笑
ですが、自分を磨くために良い題材を頂いたと思っています。
古文書解読による先祖調査という機会を頂けて感謝ですね。
つまらないこと、苦手なことが楽しいことに変わる。
人生って、光に彩られていますね。
ありがたいことです。
私たちは光の魂です。
光であることが本質です。
今日も愛と光に包まれています。
たった今も、光は注がれています。