AIが普及した世界で人間が存在する価値。
それは、体を使うこと、五感を使うこと、感情を動かすこと。
つまり、コミュニケーション。
LISTEN――知性豊かで創造力がある人になれる
コミュニケーション力は大切。
それは共通認識といっても過言ではないでしょう。
でも、コミュニケーション力といっても具体的にはどういうこと?
そういった疑問が浮かぶかもしれません。
私はこう考えます。
「聴く力」だと。
傾聴は傾聴を生みます。
LISTEN――知性豊かで創造力がある人になれる p188
自分の話を聞いてもらった経験がある人だと、あなたの話を聞いてくれる可能性がずっと高くなります。

この本、LISTEN――知性豊かで創造力がある人になれるは、聴く力を伸ばすことによって人生がどれだけ豊かに愛あふれるものになるのかを伝えてくれる一冊です。
そんななかで、こんなくだりが紹介されてハッとしました。
現代において最大の心配事は、社会からの拒絶、孤立、追放です。
ハリリは、こう述べています。
「(中略)人は冷遇や侮辱に弱くなりました。自分の心身の健康にとって、今や最大の脅威は”他者”です。そしてそれが、社会で生活することに不安をもたらすのです」だから、人は意見が合わないとき、互いに耳を傾けるより、額に青筋を立てて目をむき出しどなり合うのでしょう。
その瞬間に原始的な脳は、意見の相違を「自分の部族から見捨てられ、誰からも守られずに独りぼっちになった」と解釈し、激しい怒りを恐怖でいっぱいになります。
LISTEN――知性豊かで創造力がある人になれる p192~193
この説明を見たとき私の頭にはある体験がよぎりました。
「この文章と逆の現象を、私は体験したことがある」と。
つまり、部族の一員であるというだけで、無条件に受け入れられたという経験を。
何も証明しなくていい ただいるだけでいい
現代社会を生きる私たちは、他者に「自分は何者であるか」を説明しなければなりません。

典型的なのがSNSアカウント。
「〇〇が好きです」
「趣味は××です」
「△△所属です」
今の20代以下の世代が連絡先を交換するのはLINEではなくインスタグラム。なぜなら、インスタのほうがその人がどんな人かがわかるからだそうです。LINEだとプロフィール情報が少なくてどんな人かわからないから困る、ということですね。
私はこの話を聞いて、圧を感じました。
「えっ……インスタに投稿して自己表現しないといけないの?」と。
しかも「当たり障りのない社交用」と「親しい人用アカウント」と「仕事用」と、何個も使い分けて――。
仕事用ならわかります。
自分は何者でどんな資格があってどんなキャリアを歩んできたのかを説明することは大切です。
でも、プライベートで付き合う相手にまで、そんなわかりやすいプロフィールを書いてステレオタイプに付き合うというのは、辛いのでは?
もっと自然に出会って、もっと自然に距離が縮まって、少しずつお互いを知っていくほうが「作った自分」じゃなくいられて楽じゃない? 互いの色々な面を自然に少しずつ理解していくほうが、人間の深みが感じられて面白いのでは?
「〇〇推しですよね、フォローしていいですか」
そのつながりって、推し変したら切れてしまうのでは?
その人と、推しの話以外はできますか?
私は古い人間なのかもしれませんね。
上のような疑問が浮かんでしまいます。
しかし、こんな付き合い方が現代社会ではごく一般的でしょう。「自分は何者か」というラベルを貼らねばつながれない、そんなつながりが――
そんなある日、私は強烈な体験をしました。
「自分は何者か」なんて全く証明しないのに、無条件にすっぽり受け入れられる、という体験を。

先祖調査に欠かせないもの。
その一つがお寺訪問。
家系図の先生からそう教わった私は、お墓参りとお寺さん訪問をしました。
私事になりますが、私は親と縁を切って二十年経ちます。
親族の葬式にも法要にも一切出ておりません。
つまり、お寺さんへの訪問も実に二十年ぶりです。
そんな中で、アポなしでいきなり訪ねた私。
「すいませーん、(納骨堂で)おつとめしていただきたいのですがー」
大声で呼ぶと、奥様が出ていらっしゃいました。
「あら、どちら様ですか」
「はい、〇〇の孫でございます」
「あらー、〇〇さんの! ちょっと待ってくださいね」
奥さんは住職さんを呼んできてくれました。
そして住職さんは「〇〇の孫」である私と納骨堂に行きお経をあげ、私が家系について調べているというと、「ではこちらで話しましょう」と居住スペースに招いてくださいました。
そして、私の家について知っていることをいろいろと教えてくださり、私の家の祖先について詳しく調べている縁者がいることを教えてくれ、その場で電話までしてつないでくださいました。
私は圧倒されました。
だって、戸籍も身分証明書も何も見せてません。
「〇〇の孫です」という言葉だけで「そうですか、〇〇さんのお孫さんですか」で、親切にしてくれるんですよ。
私はこの方々に、何も証明していません。
年収も、経歴も、資格も、学歴も、SNSのフォロワー数も、何も。
ただ「〇〇の孫」といっただけです。
何の努力もしなくても照明もしなくても、話を聞いてくれてお経もあげてくれて人も紹介してくれる。ただその人の血を継いでいるというだけで。つまり、ジョジョの奇妙な冒険がなぜこんなに多くの人の心を揺さぶるのかわかった気すらしました。
なんてことだ。
「自分は何者であるかを証明しなければ始まらない社会」で生きてきた私は、あっけにとられました。
ただ存在しているだけで、すっぽりと受けいられる感覚。
ただその家の人間なだけで、受け入れてもらえる。
すごいことだ、と思いました。
同時に、日本人(もしかしたら地球人)の多くが今、この感覚に飢えているのではないか――そう思いました。
それくらい、自分の奥深くが無条件に満たされた経験だったのです。
ただ、あなたはいるだけでいい
この経験から、私は「自己紹介をしないでいられる空間」の重要性を思うようになりました。
「私は××大学卒で、〇〇でシニアパートナーを務めたあと独立し――」
「私は大学中にキャリアをはじめ、〇〇賞を受賞した後△△での提携を経て現在は――」
「私はアメリカでのMBA取得後はマネジメントのキャリアを積み、30社ほどのコンサルティングを担当し――」
こんな話、しなくていい。
だって、社会でもネットでも、こんな話しなきゃならないところだらけなんだもの。
こんな話しないで、自分は何者かなんて語らないで、「ただいるだけでいい」空間が日本人には(多分地球人の多くも)必要だ。
お寺さんでのあのすっぽり包まれるような経験をしてから、そう思うようになりました。
だから、そういう場を作ります。

毎週日曜日の9:30。
30分ほどの「ただ話してただ聞く」会をします。
名付けて、ゆるのん会です。
軽いルールはありますが、何を話してもOK。
言いっぱなし聞きっぱなし。
ただ話して、ただ聞く。
あなたが何者かは誰も問いません。
ただいるだけでいい。
話したいことがないなら「今日は話を聞きにきました、ありがとうございます」といって終わればOK。そしてただ聞く。
そんな会をします。

あなたは「トーキング・スティック」というものを聞いたことがありますか。ネイティブアメリカンの部族で使われていたスティックです。
話し合いをするときにはこのスティックを持った人だけが発言権があり、他の人は黙って聞くことがルールだったそうです。
ゆるのん会でも、似たような話し方をします。
話す番が来た人が持ち時間5分までで、ひたすら自分が話したいことを話します。聞く側はただ聞きます。
日本でも、江戸時代以前の村の寄り合い(会議)では似たような話し合いが行われていました。全員が意見を述べ合意に達しなければ、その案は通らなかったそうです。
どうしても通したいことなら、時間をかけて何回も話し合って、何度も説得する。相手の言い分を聞いて、そこに寄り添う。みんなが納得するまで何日も、とことん話しあう。
そんなことが行われていました。【参考】宮本常一『忘れられた日本人』岩波文庫
そういう、「ただいるだけでいい場」を作ります。
よかったら、遊びに来てください。
日曜日の朝、お気に入りの飲み物を用意して。




