我をそぎ落とすと現れる「ほんとうの自分」

夏至祭で話した話題の一つに「いきなりの目覚め」があります。

徐々に少しずつ成果が積みあがっていくのではなく、「半年後にはこうなっているだろう」「一年後はこうだろう」という予測もつかず手探りで、ずっとできなくてずっと上手くいかない状態――でも、ずっとずっと同じことを繰り返していくと、ある日いきなり目の前が明るくなる。
いきなり、道が開ける。

そういうことがあると。

なぜそんなことを感じたかというと、武道の稽古をしているからです。

武道の稽古には大抵「型」があります。
型自体は単純な動きです。
例えば、正拳突きのような。

もちろん型の稽古は奥深く、美しく行うには鍛錬が必要になります。しかし、動き自体はそこまで難しいものではなく「なんとなく」なら誰にでも真似できるような所作です。だからこそ初心者から稽古用の練習に使えるわけですね。

言い換えると、やってもあまりおもしろくない。

ピアノでいうハノンです。
水泳でいうバタ足です。
野球でいう素振りです。

実に単調でおもしろくない。

しかも、単調だから「昨日よりうまくなったぞ!」みたいな達成感がない。
打てない球が打てるようになった! ゴールにボールが入った! スコアが30ポイント上がった! みたいな明確な到達点がないのです。

そんなつまらない稽古を毎日やる。
上手くなっているのだか下手になっているのだか、わからないことを毎日やる。
「これをやってたら5年後には黒帯になれます」みたいな保証もない。

どうです。
理不尽ですよね。
ゲームのミッションみたいに、クリアしてわかりやすくステップアップしたいですよね。

でも、型をやるのです。
非合理だけど、やるのです。
だって「そういうもの」だから。

そうして「うーん、うーん。できているのかできていないかすらわからない。そもそも、こんなことに何の意味があるのか」と思いつつ毎日単純な型をひたすら繰り返していると、ある日いきなり「えっ、あっ、えっ!?そういうこと!?」と目の前が開けるのです。

前の日まで全くできてないなと思っていたのに、半年後もできてないだろうなと思っていたのに、いきなりするっと目の前が開けるのです。
身体と魂の深いところが、ぽん、とつながるのです。

この話を夏至祭ですると、さくらさんが「わかる」と共感してくださいました。

さくらさんについては以下の記事で詳しく書いています。

さくらさんは受験生時代、美大に進学するために、毎日ひたすらブルータスの石膏デッサンを来る日も来る日も繰り返したそうです。

「こんなことして何になるんだ」
そんな風に、受験生さくらさんの頭には至極建設的な疑問が浮かんだそうです。

ですが、課題なので仕方ありません。
毎日毎日言われた通りひたすらブルータス像を描く。描きすぎて上手くできてるんだかできてないんだかも、もうすでに分からない。ブルータスの絵画的ゲシュタルト崩壊。

でも描く。ひたすら描く。
同じものを何枚も何枚も。
ブルータス、またお前か。

そうすると、ある瞬間「ふっ」と目の前が開けたそうなのです。
「ああ、なるほど。なるほど、これはこうだったのか!」と。
光の加減、力の加減、像の息吹とつながったのです。

単純で達成感のない作業をひたすら繰り返すと、ある地点で飽和し、いきなり違ったステージにランクアップする。

この現象は「〇カ月やったら初級編卒業」とか「この講座を受ければ3級が取れる」とか「今のところ50%達成。半年後には100%達成の見込み」とか、そういう建設的な見通しとは真逆のベクトルにあります。

まったく前が見えないけどひたすらやる。
そうしたら、気が付いたら異世界に到達している。
そんな感覚です。

どうしていきなりジャンプアップできるのでしょう。
普通にやっていても気づけないようなことが、いきなり降っておりてくるのでしょう。

たぶん、これは禅の修行に近いのだと思います。
単純で理不尽で、わけのわからないことをやるプロセスは「我を落とす作業」なのです。

チベット仏教の礎を築いた偉大な師、ティロパが弟子ナロパにした理不尽極まる無茶ぶりにも相通ずるものがある――というと、少し言いすぎでしょうか。

「我」があると、行き詰ります。
我というのは「こうしたい」「あの人にこうなってほしい」「自分はこういう人間なの、わかってよ」といった気持ちです。武道的にいうなら、敵を倒したい「こいつをやっつけてやる」といった感情です。

そういう「我」がある状態でも、筋力で相手をねじ伏せることはできます。自分より小さくて弱い相手を組み伏せることはできます。一方で、自分より体も大きくて筋力もあるような人――私の場合だと男の人相手だとびくともしません。

でも、我をそぎ落とすことができたら。
我を祓い、空になり虚になることができたら。
そのとき、自分より大きな相手でも崩すことができるのです。

例えば、この動画を視てください。

この動画で、「やっつけてやる!」感、ありますか?
「どうだ俺は強いだろう、すごいだろう!」感、ありますか?

ないですよね。
非常に淡々と、フラットに動いてらっしゃる。
これが、我をそぎ落とした状態です。

我をそぎ落とすと、我が強い状態から脱することができると、「真我」が見えてきます。
つまり、仏としての本当の自分、自分の内なる神性の輝きを垣間見ることができます。

我をそぎ落すと、本当の自分が見える。
言い換えると、みんなと全く同じ行動をする(型の稽古をする)、パーソナライズしないで個性を捨てる――そうすることで逆説的に、「自分はどんな存在であるか」が見えてくるのです。

このことをわかりやすく説明してくださるのが、伝説の芸妓、岩崎究香さん。

芸妓峰子の花いくさ: ほんまの恋はいっぺんどす (Amazon)

一説では映画「SAYURI」のモデルとも言われている美しい方です。

「個性を消すお稽古」をすることで「本当の個性」が垣間見える

私がお稽古を通して学んだ「個性」についてもお話します。舞妓さんや芸妓さんの「お稽古」は舞踊や振る舞いのお稽古をするのですが、「個性を消すためのお稽古」でもあるんです。それは、流派ごとに“型”があるからです。それぞれ流派があって、お師匠さんやお母さん(置屋の女将)に言われたことは絶対に守らないといけない。

例えば、歌舞伎を観に行って「カッコええな」と感じても、それをお稽古に出したら「あきまへん!」って叱られます。かといって、何もしないと「何を見てきたんえ!」って叱られますけどね(笑)。でも、こうやってお稽古を通して「個性」を消していくんです。

そして面白いことに、*流派の教えを守って“型”をしっかりと身に付けると、自然と個性が出てくるんです。*素直に“型”を受け入れて毎日お稽古に励むと、本当の個性が見えてきます。なので、「個性を作る」なんてもってのほか、個性は自然に出てきます。
  

伝説の芸妓“岩崎究香”氏に聞く!”昇る人” “仕事ができる人”の共通点とは|ferretメディア

型の稽古をしていると、自分仕様にカスタマイズしたくなります。
「ここはこうやったほうが合理的だ」とか「ここはこうしたほうが動きやすいではないか」とか、自分の身体に合った動きに変えたくなります。

しかし、それでは型の稽古になりません。
型は、型。決まったものをそのままやる。
理不尽でもつまらなくても、型を守る。

そうすることで見えてくるもの、それは「他力」の存在です。

型の稽古をして我を落とすと、大きな男の人すら崩せるようになります。自分の筋力で「頑張って倒してやるぞ」と我をむき出しにするとできないことが、可能になります。

つまり、「自力」で頑張っても無理なものが「他力」で可能になるのです。
その他力、自己を越えた力を呼び寄せるのが「我を落として空になった状態」であります。

そのために、理不尽な状態は非常に役に立つ。魂を磨くための栄養となる。
つまらない繰り返し、一見何の成果も生まなさそうな単純な動作の反復が、気づきをもたらすのです。

これは一体何なのでしょう。
理不尽こそが豊かな力を呼び込むだなんて。
この世の中は、面白いものですね。

こんな気づきを得られるのも、夏至祭で皆さんとお話しできたからです。
気づきをもたらしてくれる人とのご縁に感謝いたします。
人と接するって、良いものですね。

コミュニケーションは、愛と光✨
ご縁に感謝です。

タイトルとURLをコピーしました