私は今、ゆにわ塾というオンラインコミュニティで「はげめ!詣で部〜神様との通い路を作る〜」という活動に参加しています。
詣で部は月に1度、仲間と神社におついたち参りする活動です。
北海道詣で部6月は、北広島市の廣島神社に参拝しました。

氏神神と産土神
さて、あなたは「氏神(うじがみ)様」ってきいたことがありますか。
そして「産土(うぶすな)様」って耳にしたことがありますか。
ある方は、かなりの神社通とお見受けしました✨
氏神というのは、自分の住んでいる地域の神社のこと。

神棚を家に置くと、この氏神様が家に来てくれます。そして、邪気を祓い清めてくださったときに榊が枯れる現象が「右枯れ」です。
産土神とは、自分が生まれた土地の神様です。母親がおなかに子を宿した土地の神社といわれます。
一方で、産土も氏神も同じ意味で使われることがあります。
なぜなら、昔は「生まれた土地=住む土地」である人が多かったので、「産土=氏神」で同じ。区別しなくても良かったのですね。
産土様は、日本で生まれる魂をこの世界に結び付けてくれるとも言われます。お母さんに宿された胎児に、魂を結び付けてくださったのが産土様だと。
ですから、産土様は氏神様と同じく、その人にとってとても特別な神様となります。
その産土様。
私の場合、この廣島神社なのです。

あなたの氏神、私の産土
6月の詣で部活動をするにあたって、北海道ゆにゾン(ゆにわ塾会員)の寺さんが参加できると聞きました。そこで私はすかさずこういったのです。
「なら、廣島神社に行きませんか」
廣島神社は寺さんの氏神様⛩️
そして、私の産土様――なのですが、私は20年くらい産土様にご挨拶できずにおりました。なので、寺さんにかこつけて、私は産土参りを果たしてしまおう、という魂胆でございます😆

無事お参りさせていただき、祝詞を奏上させていただきました。

社務所に行って、お札とお守りをいただきました。

そのあとは、近くのカフェで直会です。
過去世やレムリアやアトランティスの話をしました😆
非常に濃密な時間を過ごせて、とても楽しかったです😊感謝💕
私は今、エドガー・ケイシーにはまっておりまして、そのお話もさせてもらいました。
(ゆにわマートには、ケイシーグッズがたくさんあります!)
Youtubeで光田秀先生の動画を何度もリピートして視ていることなど。
神は「親しき交わり」を待っている:光田秀 先生インタビュー総集編② – YouTube わたしの意思ではなく、おお主よ、あなたの御心がわたしの内に、わたしを通して行われますように。
わたしがさまざまな形で接するすべての人に対して、わたしを今日、いま、祝福の水路としてください。
わたしが(心の奥深くに)入る時も、(そこから)出る時も、いつもあなたがわたしに望まれるものと調和していますように。
あなたに呼ばれる時、わたしは答えます。
「わたしはここにおります。どうかわたしを遣わし、わたしを用いてください」
神の探求〈1〉
「この状況であれば、神は私にどういうことを望まれるかな」
この視点、すごくないですか。
私はこの動画を視てから、「自分は神に何を望まれているのか」ということをたびたび考えるようになりました。
例えば、見た目。
私、変な話で恐縮なのですが、「上品だ」と言われます。

こちらの写真、4月の東京対面セッションをお申込みいただいたお客様から
「神々しい」
と過ぎたお言葉を頂きました。
私、上品だと言われるのです。
子どものころ、小学生のころから言われたのです。
「品がある」と。
いや上品な小学生てなんですか、と思いませんか。私、男子も殴り倒す喧嘩っ早いメスゴリラのような女子小学生だったんですよ。
なのに見た目だけだと上品に見えたそうなんですね。
私は自分の本質をギャルでヤンキーだと思っています。
今でも、根はギャルだしヤンキーだと思っています。東京リベンジャーズの世界がホッとします。あれが私のホームです。暴力に満ちた家庭で育ったからですね。
そんな私が「上品」っていったい何ですかという話です。私が上品だなんて、納得いきません。
しかし、しかしです。
ケイシーの教えでは、まず「我を落とす」。
上の言葉でいう「わたしの意思ではなく、あなたの御心がわたしの内に、わたしを通して行われますように」。
自分の意思なんて要らないんです。
「私がどうしたいか」なんていらないんです。
だって、すべきことは神の意志をこの世界にうつすことなのだから。
私は、中島敦の「弟子」という作品が大好きでして。

なぜ大好きかというと、この孔子の「弟子」、子路がまさに私が共感する人物であるからです。
子路は脳筋です。
私も脳筋です。
「学問なんてマジ意味ない」と孔子に道場破りしようとして、あっさりその徳の高さにひれ伏すという格好悪い人です。
でも、子路はそれから孔子のもとで懸命に学びます。
元々荒くれものだから学問はやっぱり苦手だし、楽器なんて全然弾けなくて兄弟子に笑われます。それでも子路はまっすぐに素直に取り組みます。
だから、孔子はそんな子路を温かく見守り、そして彼の死に際して心を痛めます。
子路にとって、孔子はある意味で神でした。
「自分らしく生きよう」と思うなら、学問なんてやらなくていいんです。楽器を練習して感性を伸ばそうなんてしなくていいんです。でも、神が求めるなら。
神がお望みになるから。子路はやりたくないこともやり、自分を磨き、そして志を貫いて死にました。
やはり、魂を本当に磨くのはこの
「神は私にどういうことを望まれるかな」
ここに尽きると思います。
それを想う時、神は私に「神々しさ」を望まれるのだと思うのです。
私を通じて、神の存在を人に感じてもらう。それを望まれていると思うのです。
だから私の人生はメチャクチャなことが大量に起こります。「まさに神の御業」としか思えないようなことが。破天荒すぎて、よく生きているなと自分でも思います。
それも私という人間を通じて、神を感じてもらう手段なのだと。
私自身の内面は荒々しさに満ちているにもかかわらず、幼き時分から「上品だ」と評されるのは、神が「そう在りなさい」と望まれているからだ。
そう思うと、神の祝福の水路たるべく品格ある振る舞いをせねばならぬと感ずるのです。子路が才能のない、どうやっても上手くいかない楽器を苦しみぬいて練習したように。
子路は元々自分に楽才の乏しいことを知っている。そして自らそれを耳と手のせいに帰していた。しかし、それが実はもっと深い精神の持ち方から来ているのだと聞かされた時、彼は愕然として懼れた。大切なのは手の習練ではない。もっと深く考えねばならぬ。彼は一室に閉じ籠り、静思して喰わず、もって骨立するに至った。数日の後、ようやく思い得たと信じて、再び瑟を執った。そうして、極めて恐る恐る弾じた。その音を洩れ聞いた孔子は、今度は別に何も言わなかった。咎めるような顔色も見えない。子貢が子路の所へ行ってそのむねを告げた。師の咎が無かったと聞いて子路は嬉しげに笑った。
中島敦 弟子
人の良い兄弟子の嬉しそうな笑顔を見て、若い子貢も微笑を禁じ得ない。聡明な子貢はちゃんと知っている。子路の奏でる音が依然として殺伐な北声に満ちていることを。そうして、夫子がそれを咎めたまわぬのは、痩せ細るまで苦しんで考え込んだ子路の一本気を愍まれたために過ぎないことを。
そうそう、昨年、ゆにわ塾の白山奥義編の直会で、お隣に座られた川嶋文香さんがこうおっしゃってたんですね。
「先生(北極老人)に頼るのではなく、先生をお守りする人間にならねばと思う」と。
偉大に見える人であっても、強くない。
自分がお守りしなければ。
華奢な女性がそうおっしゃるのが印象的で。
子路も、孔子に対して同じことを想うのです。
それがまた面白い。
濁世
中島敦 弟子
のあるゆる侵害
からこの人を守る楯
となること。精神的には導かれ守られる代りに、世俗的な煩労
汚辱
を一切己
が身に引受けること。僭越
ながらこれが自分の務
だと思う。
驚くべき産土様の力
さて、私は家に帰って廣島神社のお札を神棚にお祀りしました。
すると、神棚のあるリビングの気がものすごく、変わりました。
言葉で表現するのは難しいのですが、「地に足がついた」感じがありました。
私は夜、寝室に下がる前に、「今日も一日ありがとうございました」とあいさつをし、電気を消してリビングの気を観ます。
私は毎日朝に先祖供養をしているので、上げてもらいたがっている霊が来ているときは、その気が割とざわざわしていたりします。きついな、と思う時もあります。そういう時は「明日、お線香を上げさせていただきますね。ありがとうございます」と一言お断りして眠ります。
しかし、産土様のお札をお祀りした時のその気は、とてもあたたかいものでした。
やはり産土様は、一人ひとりを愛情持って見守られているのだ、と感じました。
20年ぶりの産土参り。
行って良かったです。
ご一緒してくださった寺さん、なおさんに感謝。そして、そのきっかけをくれたゆにわ塾詣で部に感謝いたします。
もし「自分の産土神社ってどこだろう?」と興味を持たれた方がいらっしゃいましたら、こちら↓からお調べください。
長くなってしまいました。ここまでお読みいただきありがとうございます。
あなたにも間違いなくある産土様の愛がたくさん届きますように。心からお祈りしております。



